前回の(2007年12月15日)の続きを書きます。
そのゲーム器が悪いのではなく、ゲームすること自体が、ゲーム器とゲームをやる子供が一人になるということです。
もちろん複数の人がやるゲーム器もありますが、たいていはゲーム器とゲームをやる子供が一人「相手を意識する必要がない(ゲームをする行為の自分だけの存在時間でしかない)」になるという場合が多いと思います。
と言うことは、他の子供達と一緒になる機会がほとんど無くなると言うことです。
例えば、私達の子供の頃には当然ゲーム器などがない時代ですので、遊
ぶということは、自分達同年齢に近い子供達と一緒に遊ぶことが当たり
前の事自体を意味している事なので、その中でお互いの連帯意識の中で
の優しさや悪知恵も一緒になって行動すると言うことです。
ですから、相手がどういう個性や性格で物事を考えているかが読めるの
で、何かをして遊ぶ時にも彼(彼女)は、こういう性格と考え方をする
子だから、「こう、しようね」という阿吽の意識のもとに遊ぶ行動をす
る事ができました。ですから、相手を知ることに時間や経験をそんなに
必要としないで済んだものです。
しかし現代は子供同士が、お互いに相手を知るのに、時間や経験と行動
が伴わないと、子供同士の認識のズレが容易に埋まらないので、
チョットした言い争いでもすぐに揉め事が起こるのです。
例えば「遊びの行動が食い違ってても、いちいち、相手の意識を確認し
てから遊ぶ行動がしばし多い(子供の認識の一体感がない)」私達の子
供の時代では何の問題もなく、当たり前のことが、今の子供達とっては
当たり前ではないのです。
2007年12月26日
2007年12月15日
エミールの独り言「社会と子供の関わり」
前回の「エミールの独り言(教育其の三)」にも書きましたが、少年時代の私は大の勉強嫌いでした。
母はわたしの顔を見るなり毎日、口癖のように、勉強はやったか、宿題は、と口喧しく言うのが日課でした。
その母と私の時間がある程度経った頃、母は当時の商店街の中で自分の経営している衣料品店に行く為の身支度をイソイソしながら家を後に出掛けるのでした。
その後の家には、私ひとりだけの、好きな、好きな自由な時間の天国でした。
もちろん、勉強はその場で放り投げて早速、近所の悪ガキ連中と大好きな、子供の遊びである。
当時は、今のようにゲーム器がない時代なので、子供が遊ぶとは、すなわち同年齢前後の子供達が一緒になって、心も考えも同じになると言うことである。
なぜそのことを強調したいかと言うと現在のすぐに切れる人達(母親や父親や兄弟でも)が多い事件(子供が親を殺す、逆に親が子供を殺す)の報道を見聞きすると、なぜ、と思います。
そして、一番悲惨なのは、自分の子供に殺されるた母親である。
女として、子供を授かり、生み育て、子供の将来を思い、学校や塾に通
わせ、その子供為に毎日の食事や日常の細々とした身の回りの事をやっ
て、育てたその自分の子供に殺される、母親は、ただ一身に子供の為を
思い、愛情を掛けたはずである。
又その逆もある、母親が子供の育児を面倒臭がり、子供の虐待や殺害が
新聞やテレビに良く取り上げられる事が多いが、その父母親達やその子
供達にも供通しているのは、自分の価値観のみでしか判断していないのである。
それは、他人や相手の価値観を知ろうとしなで、ただ自分の価値基準のみで物事の行動を起こすその事が、親殺しや子殺しになる。
そして、その価値基準の元が、自分達の幼年期に溯ると思います。
続きは、次回に書きます。
母はわたしの顔を見るなり毎日、口癖のように、勉強はやったか、宿題は、と口喧しく言うのが日課でした。
その母と私の時間がある程度経った頃、母は当時の商店街の中で自分の経営している衣料品店に行く為の身支度をイソイソしながら家を後に出掛けるのでした。
その後の家には、私ひとりだけの、好きな、好きな自由な時間の天国でした。
もちろん、勉強はその場で放り投げて早速、近所の悪ガキ連中と大好きな、子供の遊びである。
当時は、今のようにゲーム器がない時代なので、子供が遊ぶとは、すなわち同年齢前後の子供達が一緒になって、心も考えも同じになると言うことである。
なぜそのことを強調したいかと言うと現在のすぐに切れる人達(母親や父親や兄弟でも)が多い事件(子供が親を殺す、逆に親が子供を殺す)の報道を見聞きすると、なぜ、と思います。
そして、一番悲惨なのは、自分の子供に殺されるた母親である。
女として、子供を授かり、生み育て、子供の将来を思い、学校や塾に通
わせ、その子供為に毎日の食事や日常の細々とした身の回りの事をやっ
て、育てたその自分の子供に殺される、母親は、ただ一身に子供の為を
思い、愛情を掛けたはずである。
又その逆もある、母親が子供の育児を面倒臭がり、子供の虐待や殺害が
新聞やテレビに良く取り上げられる事が多いが、その父母親達やその子
供達にも供通しているのは、自分の価値観のみでしか判断していないのである。
それは、他人や相手の価値観を知ろうとしなで、ただ自分の価値基準のみで物事の行動を起こすその事が、親殺しや子殺しになる。
そして、その価値基準の元が、自分達の幼年期に溯ると思います。
続きは、次回に書きます。
2007年11月25日
エミールの独り言「教育其の七」
前回に続いて、N先生の事をかきます。
私達のクラスの生徒のある一人は、学生生活とは思えない様な不良学生
がいました。その学生はすでに当時から、夜の水商売の女と同棲生活を
していて、月々の小遣いや生活費の一部は、彼女からの援助だったと思
います。ヘタすれば今流で言うヒモです。当然、学校もサボリがちで
単位数も足りなく、補習授業を受けることがたびたびでした。
ですから、私達仲間からは、彼の将来は暴力団かヤクザにしかならない
だろうな〜と思っていましたが、その彼が、このN先生の影響で全く変
ったのです。卒業数十年後にクラス会を地元沖縄で行ったのですが、そ
の時に、彼も出席していて、同級生の一人々に挨拶をして廻っていまし
たが、何とその彼は、今は大阪で電気会社を運営し従業員数名を使う会
社の社長になっていました。あまりの変貌振りに挨拶を受けた同級生の
誰でもビックリしたのを覚えています。挨拶一つにしても、もう昔の彼
とは思えない敬語を使い深々と頭を下げ、丁重な会話をするのを見て、
私も勝手のあの、どうしようもなっかた不良学生の彼が、今こうやって
同級生の私の前で話をしていても、ただ漫然と彼の顔を目をパチクリ
しながら見るのがやっとで、会話の中味が何だったかは覚えて無く、
ただ会社の今の仕事が忙しく、従業員が足りないので君の親戚や知人で
本土で働きたい人がいれば是非、紹介して欲しいとの内容の会話だった
事だけは覚えいるが後は、ただ彼の顔と容姿をジロジロ見ていただけで
した。その時思ったことは、人は、つくづく変わるものだと思ったこと
です。学生の頃の彼に対しては彼の人生は知れたものと思ったのは
私一人ではあるまい、大方のクラスメートの全員がそう思っていました
その彼が、今この様に変わっていることに一同唖然としていました。
今流で言えば、「は、うそ〜」という感じです。
その時、教師という一人の人間像が、こうまで人を変えることができる
のだと思った事でした。その当時の、担任だったN先生は教員免許も無
く、ましてや教壇に立つた事もない人が、人に物事の何であるかの真理
を教えて頂いたと思っています。そして、曲がりなりにもぐれたり、
人生を踏み外す事無く、全員(一人を省いて)真っ当な人生を今、今日
歩んで来れたのも、このN先生のお陰だと思っています。
此からも、昔の不良学生の私達をこれからも、見守ってください。合掌
N先生の事は、これで終わります。
次回、「私の子供の頃」を書きます。
エミールより。
私達のクラスの生徒のある一人は、学生生活とは思えない様な不良学生
がいました。その学生はすでに当時から、夜の水商売の女と同棲生活を
していて、月々の小遣いや生活費の一部は、彼女からの援助だったと思
います。ヘタすれば今流で言うヒモです。当然、学校もサボリがちで
単位数も足りなく、補習授業を受けることがたびたびでした。
ですから、私達仲間からは、彼の将来は暴力団かヤクザにしかならない
だろうな〜と思っていましたが、その彼が、このN先生の影響で全く変
ったのです。卒業数十年後にクラス会を地元沖縄で行ったのですが、そ
の時に、彼も出席していて、同級生の一人々に挨拶をして廻っていまし
たが、何とその彼は、今は大阪で電気会社を運営し従業員数名を使う会
社の社長になっていました。あまりの変貌振りに挨拶を受けた同級生の
誰でもビックリしたのを覚えています。挨拶一つにしても、もう昔の彼
とは思えない敬語を使い深々と頭を下げ、丁重な会話をするのを見て、
私も勝手のあの、どうしようもなっかた不良学生の彼が、今こうやって
同級生の私の前で話をしていても、ただ漫然と彼の顔を目をパチクリ
しながら見るのがやっとで、会話の中味が何だったかは覚えて無く、
ただ会社の今の仕事が忙しく、従業員が足りないので君の親戚や知人で
本土で働きたい人がいれば是非、紹介して欲しいとの内容の会話だった
事だけは覚えいるが後は、ただ彼の顔と容姿をジロジロ見ていただけで
した。その時思ったことは、人は、つくづく変わるものだと思ったこと
です。学生の頃の彼に対しては彼の人生は知れたものと思ったのは
私一人ではあるまい、大方のクラスメートの全員がそう思っていました
その彼が、今この様に変わっていることに一同唖然としていました。
今流で言えば、「は、うそ〜」という感じです。
その時、教師という一人の人間像が、こうまで人を変えることができる
のだと思った事でした。その当時の、担任だったN先生は教員免許も無
く、ましてや教壇に立つた事もない人が、人に物事の何であるかの真理
を教えて頂いたと思っています。そして、曲がりなりにもぐれたり、
人生を踏み外す事無く、全員(一人を省いて)真っ当な人生を今、今日
歩んで来れたのも、このN先生のお陰だと思っています。
此からも、昔の不良学生の私達をこれからも、見守ってください。合掌
N先生の事は、これで終わります。
次回、「私の子供の頃」を書きます。
エミールより。
2007年11月14日
エミールの独り言「教育其の六」
エミールの独り言「教育其の六」
前回に続いて、N先生の家庭訪問関連を書きます。
離島と言っても、本土の方には、ピントこれないかもしれませんが、
その中の八重山は沖縄本島から450Kmの距離にあり、
日本最西端にある与那国島は那覇からさらに530Kmですが、
台湾からは110Kmの距離にあり、那覇よりも台湾に近いのです。
そして、晴れた日には直に見えます。
そして、与那国を沖縄の方言で「ドナン(渡難)」と言います。
前にも書きましたが「島ちゃび」の典型的な離島の物語の島だとも言えます。
その、与那国島は、TVやその他の報道で海底遺跡が発見され話題にこそなりましたが、
もしこの海底遺跡の話題が無ければ、多分、沖縄本島の人々や、
ましてや本土の人達には永遠に記憶にすら無かったでしょう。
(一部観光客を省いて)そう言われるからこそ、沖縄の方言でも「ドナン(渡難)」言われるように、島に渡ることが困難で大変な所だと言うことです。
そのことを表す言葉が地元の、
与那国旅情歌に「ヨナグニヌナサギ(与那国の情け)イクトバドナサギ
(交わす言葉が情け)ヌテヌアルアイヤ(命のある間に)
トウヤシャビラ(訪ねて下さい)ドナンスンカニ。
と歌われる通り訪ね行くことの訪来者(造語)がい無いという事です。
ですからこそ人が恋し、そして訪来者を待ち望む島の人々の人に対する人情が熱いのです。
そして、当時は空や海の交通の便も悪い上に、クラスの生徒が約40名近い生徒の各家庭を訪問するのも大変だったと思います。
それと同時に、家庭訪問先の家に訪問の日時の事前連絡をして行くにしても、沖縄本島内は、何とか出来るにしても、
特に離島は台風や天候の変化で、船や飛行機の欠航で訪問できないこともしばしありました。
それでも、N先生は、クラス全員の生徒の各家庭を訪問されました。
そのことが、この先生は、本当に、自分達の事を知ろうしているのだと実感していました。
この続きは、次回に書きます。
エミールより。
前回に続いて、N先生の家庭訪問関連を書きます。
離島と言っても、本土の方には、ピントこれないかもしれませんが、
その中の八重山は沖縄本島から450Kmの距離にあり、
日本最西端にある与那国島は那覇からさらに530Kmですが、
台湾からは110Kmの距離にあり、那覇よりも台湾に近いのです。
そして、晴れた日には直に見えます。
そして、与那国を沖縄の方言で「ドナン(渡難)」と言います。
前にも書きましたが「島ちゃび」の典型的な離島の物語の島だとも言えます。
その、与那国島は、TVやその他の報道で海底遺跡が発見され話題にこそなりましたが、
もしこの海底遺跡の話題が無ければ、多分、沖縄本島の人々や、
ましてや本土の人達には永遠に記憶にすら無かったでしょう。
(一部観光客を省いて)そう言われるからこそ、沖縄の方言でも「ドナン(渡難)」言われるように、島に渡ることが困難で大変な所だと言うことです。
そのことを表す言葉が地元の、
与那国旅情歌に「ヨナグニヌナサギ(与那国の情け)イクトバドナサギ
(交わす言葉が情け)ヌテヌアルアイヤ(命のある間に)
トウヤシャビラ(訪ねて下さい)ドナンスンカニ。
と歌われる通り訪ね行くことの訪来者(造語)がい無いという事です。
ですからこそ人が恋し、そして訪来者を待ち望む島の人々の人に対する人情が熱いのです。
そして、当時は空や海の交通の便も悪い上に、クラスの生徒が約40名近い生徒の各家庭を訪問するのも大変だったと思います。
それと同時に、家庭訪問先の家に訪問の日時の事前連絡をして行くにしても、沖縄本島内は、何とか出来るにしても、
特に離島は台風や天候の変化で、船や飛行機の欠航で訪問できないこともしばしありました。
それでも、N先生は、クラス全員の生徒の各家庭を訪問されました。
そのことが、この先生は、本当に、自分達の事を知ろうしているのだと実感していました。
この続きは、次回に書きます。
エミールより。
2007年11月04日
エミールの独り言「教育其の五」
前回に続いて、N先生の事を書きます。
まず、N先生が取った行動が、生徒ひとり一人の家庭訪問を行ったことです。
その家庭訪問に先立ち、N先生は、私達に、こう切り出しました
「私は教師でもなければ又、君たちを教える資格がある訳でもない、
ましてや若い君達がこれから大人(社会人)になるであろう若人のこれ
からの人生に影響を与えるであろうこの時期に、私が教壇に立つことは
大変な思いがある。その君達の人間像を知る為にも、君達ひとり一人の
家庭状況が知りたいのと、併せて君達の生い立ちを知る上にも家庭訪問
を行いたい」とのことでした。当時、高校で家庭訪問を実施している学
校はなっかたと記憶しています。
そして、私が通った高校は県内では、、三流もいいとこの学校だったと
思います。
しかし、学校に通うクラスの生徒も、かなりの生徒が遠い地域から来て
いて、本島北部地域だと今帰仁村や屋我地方面からの生徒もいました。
中部地域だと屋慶名(ヤケナ)や勝連町(カツレン)「現在のうるま
市、(両地名共に)」方面や南部は那覇方面から来る学生や、
さらに離島からは、宮古、八重山から来ていた生徒もいました。
遠い所からの通学が困難な学生は、学校の所在地に近い近郊で間借りや
借家をして、共同生活をしていましたし、離島方面からの学生は本
島の兄弟や親戚縁者のいる所で生活しながら通学していました。
御存知、沖縄県は琉球列島と言われる通り有人、無人島を含め
大小160の島々と総面積1,024,63Kuの「島ちゃび(沖縄の方言)」離島僻地の市町村を抱えています。
島ちゃびとは、離島であるが故の苦悩、それが「島ちゃび」とよばれることです。
我々本島にいる者にしてみると、それ程苦にならないことでも、今と違って、離島の人達にしてみれば大変な日常生活を強いられています。
海が荒れれば当然食料に事欠くし、急病人がでても手の打ちようがない。当然台風銀座沖縄での日常生活に備えなくして、島で生きる事はできない離島苦がのしかかるのです。
そして、未來ある青年達が島を離れ沖縄本島に行く人が多いのです。
そうすると、島の人口も増えない上に、当然島に残るのはお年寄りだけになってしまう。
そして、島独特の風土や特産品や工芸の継承者いなくなり、島の発展が衰退するのです。
それは、日本本土でも同じで、地方から都会えの憧れと希望を持った若者が行きたがるのと同じ事です。
今随一、島の発展に寄与しているのが観光ですが、これも又いずれ衰退すると思います。
理由は、「九州、宮崎県の観光立県日南」がそうであったように、いずれ時代と共に変わっていくのです。
その為にも、沖縄県は更に次の一手を考えなければ、これからの沖縄の発展ないと思います。
この続きは、次回に書きます。
エミールより。
まず、N先生が取った行動が、生徒ひとり一人の家庭訪問を行ったことです。
その家庭訪問に先立ち、N先生は、私達に、こう切り出しました
「私は教師でもなければ又、君たちを教える資格がある訳でもない、
ましてや若い君達がこれから大人(社会人)になるであろう若人のこれ
からの人生に影響を与えるであろうこの時期に、私が教壇に立つことは
大変な思いがある。その君達の人間像を知る為にも、君達ひとり一人の
家庭状況が知りたいのと、併せて君達の生い立ちを知る上にも家庭訪問
を行いたい」とのことでした。当時、高校で家庭訪問を実施している学
校はなっかたと記憶しています。
そして、私が通った高校は県内では、、三流もいいとこの学校だったと
思います。
しかし、学校に通うクラスの生徒も、かなりの生徒が遠い地域から来て
いて、本島北部地域だと今帰仁村や屋我地方面からの生徒もいました。
中部地域だと屋慶名(ヤケナ)や勝連町(カツレン)「現在のうるま
市、(両地名共に)」方面や南部は那覇方面から来る学生や、
さらに離島からは、宮古、八重山から来ていた生徒もいました。
遠い所からの通学が困難な学生は、学校の所在地に近い近郊で間借りや
借家をして、共同生活をしていましたし、離島方面からの学生は本
島の兄弟や親戚縁者のいる所で生活しながら通学していました。
御存知、沖縄県は琉球列島と言われる通り有人、無人島を含め
大小160の島々と総面積1,024,63Kuの「島ちゃび(沖縄の方言)」離島僻地の市町村を抱えています。
島ちゃびとは、離島であるが故の苦悩、それが「島ちゃび」とよばれることです。
我々本島にいる者にしてみると、それ程苦にならないことでも、今と違って、離島の人達にしてみれば大変な日常生活を強いられています。
海が荒れれば当然食料に事欠くし、急病人がでても手の打ちようがない。当然台風銀座沖縄での日常生活に備えなくして、島で生きる事はできない離島苦がのしかかるのです。
そして、未來ある青年達が島を離れ沖縄本島に行く人が多いのです。
そうすると、島の人口も増えない上に、当然島に残るのはお年寄りだけになってしまう。
そして、島独特の風土や特産品や工芸の継承者いなくなり、島の発展が衰退するのです。
それは、日本本土でも同じで、地方から都会えの憧れと希望を持った若者が行きたがるのと同じ事です。
今随一、島の発展に寄与しているのが観光ですが、これも又いずれ衰退すると思います。
理由は、「九州、宮崎県の観光立県日南」がそうであったように、いずれ時代と共に変わっていくのです。
その為にも、沖縄県は更に次の一手を考えなければ、これからの沖縄の発展ないと思います。
この続きは、次回に書きます。
エミールより。
